草野心平 |
ホーム >> 草野心平 >> 聞き書き−草野心平と中野直人さん |
|
モリアオガエル ![]() 天山文庫内の蔵書 |
聞き書き−草野心平と中野直人さん中野さんが、草野心平と初めて会ったのは、昭和28年。中野さんが34歳、村の総務課長をしていた時である。その時心平先生はちょうど50歳だった。 初めて川内村を訪れた日、中野さんは長福寺で郵便局長をしていた井出登さんと心平先生が来るのを待っていたのだ。長福寺の矢内住職と中野さんの兄は同級生で、住職は中野さんを弟のようにかわいがってくれていたそうだ。その日も、心平先生が初めてやって来るというので、出迎えを頼まれたのである。 そのときの様子を、中野さんは今でもはっきりと覚えていて、面白いエピソードがあるそうだ。 夕方、やっと心平先生が到着して、歓迎の酒宴半ばに、久保の辺りで火事騒ぎがあり、矢内住職と中野さんは現場に出掛けてしまったという。 ぼやで納まったので長福寺に戻ると、矢内住職のお母さんが太鼓をたたき、心平先生が踊っていたそうだ。もうすでに、お酒を飲んで酔っ払っていて、火事現場から帰ってきた二人は呆然としたとか・・。 「こんな風に、天真爛漫なところがあったから、みんなに親しまれたんだろうな。」と、中野さんは話す。 昭和28年9月2日 心平先生が初めて平伏沼(へぶすぬま)を訪れたときは、登り口の知り合いの家から、先生がはくためのモンペを借りて山を登っていったそうだ。沼に着くと先生は、ベンチに腰をかけてしばらくの間、じっと沼を眺めていた。そして、ぐるぐると沼を何度か歩き回り、かえるを探しているかのようだったという。その時の、ベンチに腰をかけている写真が川内村 発行の本に掲載されているが、それは中野さんが撮影した写真なのだ。その当時、カメラはとても珍しく役場でも中野さんしか持っていなかったというのだ。 心平先生が名誉村民になったことにも、こんなエピソードがあったと中野さんは話してくれた。実は、名誉村民になって欲しいと提案したのは、村総務課長の中野さんで、その当時、仙台市の名誉市民になった「土井晩翠」のことを知り、心平先生にも 名誉村民になってほしいと思ったそうだ。 後に、心平先生から名誉村民受諾の手紙が中野さん宛てに届き、そして当時の河原武村長が議会の議決を経て、昭和35年9月、名誉村民の称号を贈ったのである。 村の学校の校歌を作詞したのは心平先生であるが、昭和28年当時に川内中学校にはまだ校歌が無かったそうだ。生徒が修学旅行に行って、バスガイドのお姉さんに皆さんの校歌を聞かせてくださいと言われ、校歌が無い中学生が皆で恥ずかしい思いをしたというのだ。それを中野さんが聞き、心平先生にお願いをしたのだ。心平先生は快くそれを引き受けてくれたそうだ。 …(取材者より)私が中学校のときに歌っていたあの校歌に、こんないきさつがあったとは初めて知り、改めてあの校歌を歌えたことをうれしく思えた。 天山文庫が出来るまでにもこんな話がある。心平先生に名誉村民の褒美にと木炭百俵を差し上げた代わりに、先生は車に本を三千冊もくれた。その本を持って帰っては来たが、小さい役場には置くところが無いため、しばらくの間、長福寺で預かってもらうことにしたという。 が、いつになっても役場で引き取りに来ないため矢内住職から再三の申し出があった。そして、ある晩、先生を交えて酒を皆で飲んでいるときに、「しょうがない、村でその本のために心平文庫を作るしかないか」と言ったことからはじまったのだ。 だが、お金がかかることなのでなかなか着手することが出来ないでいたが、心平先生から「まだ出来ないのか」と何回もせかされ、設計者の山本勝巳を紹介された。その時の設計料が当時のお金で30万円。予算が無い村では、高額なお金に困ってしまって、しばらくほったらかしにしておいたそうだ。今度は設計事務所が困ってしまい、東京からわざわざ徴収しにやってきた。交渉のうえ、30万円を20万円に値引きしてもらったという。建設場所は、井出正信翁が所有地を無償で提供され、村は 建設費150万円を予算化し、建設材料はすべて村民から寄付で賄った。こうして、総工費300万円の天山文庫は見事完成したのだ。 「なんといっても、村民の人情が無かったら、建設できなかったなあ」と思い出しながら中野さんは話してくれた。 心平先生が愛した「どぶろく」を「白夜」と名付けたのはとても有名な話で、心平先生のエッセイ集「雑雑雑雑」にも書いてある。その中に、心平先生に戒名をつけてもらった老人が登場する。その方は、中野さんの父親なのだ。 中野さんの母親は、どぶろく作りの名人で、その日も、心平先生と矢内住職とで飲みにいらしたらしい。飲んでいるうちに、中野さんの父が自分に戒名をつけてくれと頼んだと、エッセイ集には書いてあるのだが、実際には心平先生が、どぶろくのお礼にと自分から戒名をつけてくれたそうだ。 心平先生が自分のメモ帳を破いて真剣に考えはじめ「白夜院一骨大乗居士」という戒名が出来上がった。住職はいくら詩人でも、戒名は無理だろうと思っていたので、その素晴らしい出来栄えに、とても驚いた様子だったと、中野さんは話してくれた。その時中野さんは、奥の部屋から硯と筆を持ってきて、戒名を紙に書いてもらったのだが、心平先生はどぶろくを飲んでいて酔っ払っていたため、昭和28年と書くべきところを昭和23年と書き間違えてしまったのだ。そのことは、心平先生には言わないままであった。 中野さんになぜ心平先生がこんなに川内村を好きになったのか、と尋ねたら、心平先生が話してくれたことを思い出して語った。 「川内村の人たちは、僕が村を訪れたときにとても歓迎してくれる。現職の村長や前の村長、前の前の村長も一緒に来てくれる。普通、選挙で戦った同士は仲が悪いものだが、川内村では、このように和やかに僕を囲んでもてなしてくれる。このようなところは他には無い。」と言ったそうである。また、川内村には毎年お盆に行なわれる「盆野球大会」がある。心平先生は大の野球好きで、 「草野チーム」という野球チームを持っていたそうだ。そして、盆野球大会の始球式を喜んで引き受けてくれた。大好きな酒も十分飲めるし、ますます川内村が好きになったそうだ。 …心平先生はどんな方でしたか?
取材日 平成16年1月30日(川内村商工会N)
|